急峻な坂が続き、鬱蒼と茂る樹木に覆われていた「小夜(さよ)の中山」は、かつて東海道の三大難所のひとつとされていました。その峠付近にある小夜の中山公園に、平安時代末期の歌人・西行法師の歌碑が建てられています。
あづまの方へ相知りたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの昔になりたるける思ひ出でられて
「年たけてまた越ゆべしと思いきや 命なりけり小夜の中山」
この歌は、文治2年(1186年)、69歳となった西行法師が東大寺再建の勧進のために奥州藤原氏のもとへ赴く途中で、若かりし頃、小夜の中山を通ったことに思いを馳せ詠んだものです。
「年老いて、この小夜の中山を再び越えられるとは思ってもみなかった。命があればこそなのだなあ。」という詠嘆が込められています。
【現地の案内板より】
西行歌碑― 生涯二度目の難所越えに詠む ―
西行法師は平安時代末期の歌人。『新古今和歌集』には最も多くの歌が入集されているが、その中でも秀れた歌のひとつとされているのが、この1首である。
23歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌い続けた西行の、最も円熟味を増した晩年の作である。この歌は文治3年(1186年)の秋、重源上人の依頼をうけて奈良東大寺の砂金勧進のため奥州の藤原秀衡を訪ねる途中、生涯2度目の中山越えに、人生の感慨をしみじみと歌ったものである。
小夜の中山は早くから東海道の歌の名所として知られていたが、この1首は歌枕としての小夜の中山の名声を一層高め、以後も数々の名歌が詠まれるようになる。
当時、京都の人々にとっては、鈴鹿山(三重県)越えることすら相当の旅行であったという。奥州までの旅は大変なものであった。古代からの交通路だった東海道も、本格的な発展をとげるのはこの歌が詠まれてから6年後の鎌倉幕府の開設以降である。
西行歌碑の建立については市内短歌会が中心になって募金運動がすすめられ、寄せられた募金をもとに昭和55年10月建立された。碑文の揮毫は歌人で西行研究第一人者の早稲田大学名誉教授窪田章一郎氏、設計は元日本建築学会会長で早稲田大学教授(当時)故吉阪隆正氏によるものである。